昭和49年06月29日 朝の御理解
御理解 第71節
「ここへは信心の稽古をしに来るのである。よく稽古をして帰れ。夜夜中、どう言う事がないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけに行かぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来る事は出来ぬ。まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけ。」
昨夜の御祈念に、幹三郎が当番でしたから、御結界の奉仕も、それから御祈念も、それから教話もさせて頂いておりました。それにここからですから、私は耳が遠いからよくは聞こえませんけれども、あらあら聞こえた所を申しますと、毎日親教会に参拝のおかげを頂いておる。それは私の代参をしてくれる訳です。最近取り入れがあって。そして今は田植えと言う様な、外へ出ますと、今の参拝用に、見事な立派な新しい自転車をお供え頂きまして、その自転車でお参りをするのです。
その自転車で親教会参拝の行き帰りに思う事ですけれども、お百姓さん達が、一生懸命に田植えをなさっておられる。その一生懸命のお仕事をしておられる風に触れた時に、何か非常に心に衝動的なものを感ずると言う。一生懸命に人が仕事をしておる姿と言う物は、そんなに尊いものである。自分達が毎日信心の稽古に親教会にお参りして、御祈念をさせて頂いておるが、果してああいう真剣さを持ってお参りしておるだろうか。
御祈念をしておるだろうか、と思わせて頂いて、本当に相済まんという気が起こり、親教会で御祈念さしてもらう時に、どうぞお百姓さん達が田植えをしておられる、あの一心の姿、あの一生懸命の思いで御祈念をさせて下さいと言うて願います。という意味の話をしておりました。矢張り、信心の稽古というのは、私はそれだと思うんです。ただ詣る、拝むと言う事だけでもおかげは受けますし、まあ例えて申しますと、明日に控えております大祓式など、沢山遠隔地辺りから、今「はらえつもの」が参ります。
その手紙の中には、いうなら去年も一年おかげで無事家族中の者が健康で、おかけで車もお祓いを頂いとるおかげで無事故でおかげを頂きましたという、それこそ年に一度のお祓いだけにお願いをして来る人、またはそういう願いをしておる人がいくらもありますよね。それでも確かにおかげを受けるという。だから、信心にはそういう面、いわば願う面頼む面、そしてそこにおかげを受けると言う事と信心の稽古をさせて頂くと言う事が信心、という二つの面があるんです。
それはもう本当に昨年もやっぱり千台近くからの、例えば車だけでもお祓いをさせて頂いとります。それが殆どおかげを頂いておるという事実。これはもう大奇跡ですよ。それは全然皆無じゃありません。ちょっとぶつけられて傷がいったとか、または衝突したけれど、けれどもおかげで人間は無事であったとかと言うのもありますけれども。とにかく、今はもっと多いかもしれませんよね、車が多くなったから。七台持っとれば一年に一台は事故に遭うというのが、統計上表れとるそうですね。
けども、ただお祓いをした、御祈念をして頂いた、御祈念を送って頂いた、と「はらえつもの」を送って「はらえつもの」を祓って頂いた、車を祓って頂いたというだけでです。それだけの、いうならば功徳というか、それだけのおかげは受けるという事実をね、お互いが思うて見なければいけん。神様の働き、力と言う物を。それは勿論神様の力と言うよりは、むしろ金光大神の力だと思うですね。同時に、金光大神の力を発揮するだけの者は、やはり取次者だと思うです。
最近、念力と言う様な事が、スプーンを曲げると言う様な、テレビでよくあっておりますね。この頃あれはインチキだ、あれは嘘だと言った様な人達があって、わざわざカナダのあれは何とかいう人だったですかね。その人がイタリーの方へ行っているのに、わざわざイタリーへ電話を掛けて、あんたのやってる事がどうも手品みたいな物だ。インチキみたいな物だ。と言う風な説があっておるからという。それに対する答えを求めているというテレビを見せてもらいました。
だがら、目の前でする事はインチキかもしれないけれども、自分の祈りが、あの時でも日本国中にスプーンが曲がったとか、病気が治ったとかというような電話が殺到してきたのは、あれはどう見るかと言うておりました。そんなら、論より証拠、今日は私が日本中に私の念を送るから、奇跡が日本のあっちこっちで起こるだろうと言う事を断言しとります。イタリーから送るんだと、だから念の力、念力の力と言う物がです。やはり私は大祓式などの上にも現れておる訳です。
その念力が、いうならば強い人ほど、そういういうならば奇跡の様なおかげを現わす事が出来るんだと思う。金光大神の祈り、念と言う物が、まあ電源であるとするならば、それをここでは、まあ変電所の様な物です。合楽変電所の様なもんです。ここでそれをまた更に強くする力と言う物を私が受けて、それを例えばここで、御神米と御神酒とだけで病気が治るというのなんかも、その御神酒さんの中に御神米の中に、御神米としての徳もさることながら、念が込めれられとるからです。
それでもね疑えばと言う事を言っておりますね、あの念力男の人もスプーンを曲げる時にです。皆さんが疑いの目心でなさるとやり難い。だから皆も心の中で祈って下さい、スプーンが曲がる様に、どうぞスプーンが曲がる様にと言うて思って下さい。祈って下さいと言うておるでしょう。科学者哲学者と言った様な人達を、前にしてやったのを前回のを見せてもらったのですけれども、親先生はあげな事言うけれども、そげな事はあるもんかと言ったらやっぱし。
それだけ希薄なものになる薄いものになる事は間違いない。だからその祈りと言う物を受けておる、しかも強力な祈りを受けておるというのが、合楽の信者さん達の、まあいうならば、私を信じて下さると言う事はそう言う事だと思うんです。親先生の祈りの圏内にあるのだからと、例えば心配な事でも心配しない。事実、そういうおかげを受けるから、体験が出来れば出来る程、その信ずる力と言う物が出来て来るから、だから信心にはそういう面もあるんです確かに。
大祓式に、ただ勿論お参りをする、お祓いを受ける、特別の車のお祓いを受ける。これは一番強い。もし参りが出来んなら、「はらえつもの」に書いて、家族中の者の名前を書いて祓うてもらや、それで一年中、無病息災のおかげを頂いて、交通事故でも無事故のおかげを頂くと、そりゃ偶然ふが良かったと言うけれども、ならこれが五年も六年も続いて御覧なさい。
先日から、日田の綾部さんがお届けをしておられます様に、毎年事故があった、お祓いをしない時には、沢山自動車を持っとられますから。けれども、ここにお参りして来る様になって五年間というものは、あれだけの車が無事故でおかげで、前回のお月次際の日でした。おかげを頂いて、無事故の表彰を受けました。と、昨日も二年連続無事故で表彰を受けたという人のお届けがありましたね。誰だったでしょうか。と言う風な事がです。自分の家の上に続いたらね、やはり私の念力を信じん訳にはいけん。
いうならば私を通して神様を信じん訳にはいけん。そういうだから念だけで終ったら、私は信心は人間の本当の幸せに、直結はしないと思う。無病息災だってだから幸せと言う事はない。交通事故に会わなかったから幸せと言う事ではない。交通事故に会うても、病気をしても、そこから人間の本当の幸せを勝ち得て行くというのが、いわば信心なんですよね。ここへは信心の稽古に来ると言う事から始まって。
最後に信心の稽古をしておけでしまっておりますね、この七十一節は。これはどんな識者でもです。ちょっと考えればすぐ解かる事。人間幸福と言う物は、金だけではいかん、物だけではいかん、無事故である事だけがおかげじゃない、無病息災と言う事だけが幸せではない。人間の幸せと言う物は、物、金ただ平穏無事と言う事だけが幸せではない事が解かる。その真をなすものは、やはり心だと言う事を、ちょっと思うたら誰でも分かる事だろうと思うです、自分自身の事を思うてみて。
たったこの位の問題が気になって気になって、心配になって心配になって堪らないどうも仕様がない。人間とはそんなものだから信心の稽古と言う物は、何処までもです心を鍛える稽古です。だから心を鍛えると言う事はどう言う事かというと、所謂本心の玉を研くもの、又は日々の改まりが第一と言われる様に、何処をどう改まったら良いかと言う事を焦点にお話を頂き、研くと言う事はどう言う事をもって研くのかと言う事、そこに焦点をおいてお話を承る。そしてそういう稽古を日々行じさせて貰うのである。
昨日一昨日の本気で一生を蚊取り線香で終ろう。本気でいわば蚊取り線香が左巻きである様に、本気で左巻きになろう馬鹿と阿呆になろうと、しかもそれに熱をかけて、一生これで燃え続け様と本気で考えた人が、昨日は何人もお礼のお届けがありました。思いも掛けない、だから結局どう言う事かというと、その方達の言われる事の共通点はどこかというと、自分が本気で馬鹿と阿呆なろうと思うたらです、却って尊ばれると言う事を言うとられます。例えば大事にしてくれなかった子供がです。
本気で是で行こうと腹を決めたら、その子供が大事にしてくれたといういわば打てば響く様なおかげ。自分が良かつでもなかとに良かつのごつと思うたり、親を親と思わんとかどうも只自分と言う物を中心にして、自分を大事にされない事だけが不平不満であると言った様な時には、却って大事にされなかったけれども、もう自分位のものをと言う事が分かってです。そして自分が愈々馬鹿と阿呆で行こう、所謂左巻きで行こうしかも是を一生これで燃え続けさして頂こうと。
もう煩わしいものが落ちてきたと言う事なのです。私共の世の中からそういう形の上にも心の上にも、その煩わしいものが無くなって行った時に頂くのが、安らぎであり、安心であり同時に喜びなんです。是はだから心を中心です。結局心が自由自在に使えれる。有難い方に有難い方にと使えるという稽古。またそれには汚れ果てておっては、そこに引っ掛りここに引っ掛りします。心が清まれば清まる程、心は自由自在に有難い方へ有難い方へと受けて行けれる。
その馬鹿と阿呆で行こうという決心などはです。もう愈々心を自由自在に使うて行く最大の稽古、方針と言うかね、稽古だと思いますね。そこでです。一番始めに申しました様に、幹三郎が言ってます様に、毎日お参りをする。お百姓さんの田植えの時の一生懸命の姿と言う物は、もうそれこそある意味では無我夢中であろうし、ああいう姿こそが一心だろう。い和揺る、一心不乱とはああ言う事だろう。その一心不乱な心を持って、御祈念をさして下さい。
お百姓さんは、お百姓なさる時一心不乱。取分けお道の教師としてお引き立てを頂いて、いうならば信心の専門家の様な自分と言う物がです。あのお百姓さんの姿にも劣っておる様な事で御祈念をしておる自分に気付かせてもらって、ああいう一心不乱を持って、御祈念をさして下さいという稽古をさして頂いとる。だからその稽古がです、倦まずたゆまずされて行く時に。
本当に御神前に向かったが最後、拍手を打っだが最後、一心が神様へすーっと通うて行く様な稽古も出来るのです。だから問題は、その稽古しようという気を起さにゃいかんです。人間の幸せの、いうならば根本、中心になるもの、どんなに恵まれた生活にならせて頂いても、心の鍛えがない人は、もうそれは幸福とは言えません。心を鍛える。いうなら和賀心を目指し。
その和賀心に全ての、いうならば病気のない世界、貧乏のない世界、争いのない世界と言う様な物がその心に集まって来るのです。そういうおかげを目指しながらも、私共やっぱり痛い痒いがあればお縋りをする、そういうのが私は明日の大祓式だと思うです。明後日から、七月一日から夏期心行が一時から、もう恒例になりました一生懸命の熱い盛りを選んで、一時からの御祈念式が御座います。
いわゆる本気での信心の稽古、信心の修業です。だから御祈念の稽古と言う事も同時にです。今日私が申します様に本当に一心不乱にです。一心を以て拝む稽古と言う事にもなります。だから一心不乱の拝む稽古をさせて貰うと言う事の為に、矢張り心を中心にした修業が夏の夏期心行だと思います。大祓式はいうなら私の念力を受ける事の為のいうならば信心だ。どれがいけないこうじゃない、二つが足ろうて行かなければ、本当の信心じゃないと思いますね。
どうぞ。